公開: 2024年5月25日
更新: 2024年5月25日
ヨーロッパ諸国では、12世紀のイタリア、ボローニャに中世の大学が設立されて以来、初等教育、中等教育、そして高等教育から成る、教育制度が整備されてきました。さらに、近代になると、各国では初等教育を義務教育として、4年間から8年間の就学を、国民に義務付けるようになりました。これは、近代国家の国民として、必要最低限の知識水準に達することを目的としたものです。しかし、江戸時代の日本社会では、義務教育制度がなく、寺子屋を中心とした基礎学力の習得は、各家庭の任意でした。
さらに、基礎学力を得た子供たちが進学すべき、中等教育や高等教育については、全く制度化が進んでいませんでした。士族の子供たちは、藩校と呼ばれていた各藩に設置されていた学問所へ入学し、裕福な商家や農家出身の人々は、私塾に入塾する例もありました。ただ、私塾の学費は高額だったため、入塾できる人々は、限られていました。つまり、特別な人々以外は、中等教育や中等教育や高等教育を受けることはできませんでした。また、教育と就業のための知識とは、関連付けられていなかったため、社会的には、教育の重要性は認識されていませんでした。
そのような社会的な背景の中で、明治新政府は、ヨーロッパ社会では既に確立されていた、教育制度と、就業に必要な知識の獲得に関する制度に似た制度を、日本社会にも導入する必要性に迫られました。例えば、医学的な知識を応用する医療従事者のための高等教育、法学的な知識を応用する司法従事者のための高等教育、科学や技術的な知識を必要とする科学や技術の研究や教育に従事する人々のための高等教育などです。医学や工学系の専門家が急がれていたため、江戸末期には、幕府によって、高等教育を実施するための幕府の学校は、設立され、専門家の養成が始まっていましたが、それは、日本社会全体の発展を考えた教育制度ではありませんでした。
明治新政府は、徳川幕府が設立した専門的な教育を実施する学校を基礎として、現在の東京大学医学部の前身となった医学学校や、東京大学工学部の前身となった工学系学校を設立し、海外から専門教育を行う教員を招へいして、教育体制の設立に努力しました。これらの専門教育は、明治維新の社会では、新しい国民皆兵の時代の社会の基盤を確立するうえで、新しい兵器の導入や、軍隊に必要な医療の導入に、必要不可欠な制度だったからです。
さらに、明治新政府は、それらの高等教育機関へ入学して学ぶ人材を養成するため、それらの高等教育へ進学する人々を養成する中等教育のための教育組織として、中学校を設立し、さらに、中学教育を受けられる人材を養成するための、小学校を設立することとしました。この小学校は、初等教育を実施するための教育機関であり、全ての国民に8年間の就学を義務付けるものでした。この初等教育の8年制の小学校制度の基礎としたものは、フランスの義務教育制度でした。
この小学校、中学校、そして大学の教育から構成される日本社会の教育を、国家として制定するため、明治新政府は、1872年に学制を定め、発表しました。このフランス式学制は、当時のヨーロッパ社会でも先進的なものであり、明治新政府の財政では、実現不可能な案でした。日本よりもはるかに豊かで、発展していた米国社会でも、義務教育の就学は、4年間でした。このため、学制の発表後、明治新政府は、方針の転換を迫られ、1979年、学制を廃止して、米国社会の初等教育を模範として、教育令を発しました。